昭和56年7月23日 朝の御理解 ●④ 【入力者:梶原佳行】

御神訓一、「神は声もなし 形も見えず 疑わば限りなし 恐るべし 疑いを去れよ」



 えー、金光教の信心でいう神を信ずるということは、どういう事かというと、んー、天地の働きそのものが、人間氏子との密接な関係にあるということ。ならどういう関係にあるかというと、氏子幸せにせずにはおかんという働きが天地には充満しているんだと。そのわけ知らず、お互いが、互い違いになったり、ね、やっぱ幸せを、が嘆いておるというのが、まぁ人間氏子の現状ではないかとこう思います。
 ね、ただ神様を信ずるということは、私は天地そのもののこの働きが、これは人間に関わっただけのことではありませんけれども、生きとし生けるものすべての上にその働きがあっておるのでございましょうけれども、まず私共は、ね、人間氏子と天地との係わり合い、ならどういう係わり合いかというと、氏子幸せにせずにはおかんという働き。そこにね、結局神様を信ずることの出来れる働きを、( ? )に見せて下さる、聞かせて下さるのが教えであり、いわゆる御理解であり、いわゆるお取次ぎの働きなのであります。
 ね、有り難いと私は思いますのは、この合楽の方達の場合はそこのところをね、非常に克明にいわゆる合楽理念に説きますから、もうお参りをしてもいい。する、本気で合楽にお参りをするようになって、ものの一ヶ月も経っておりますと、まぁその天地の生き生きした働きが、自分にこんなにも関係がある。係わり合いがあるということが体験出来ることだと思いますですね。合楽の、私はあの信心の素晴らしいのは。
 いわば疑おうにも疑いようがないのです。そして、ならおかげが受けられんのは、まだまだこちらが神様に遠いんだ。いうならば、いうならば信心が足りんのだと、その信心をいよいよ密なるものにしていくということなんです。
 ね、そこに「信心は日々の改まりが第一」であり、「信心とは本心の玉を磨くことが大事」だと。それを私共、そういう天地との係わり合いといったような、そんな話を聞いたことが特になかったもんですから、結局神様が頂きたい。神様が分かりたい。というので、えー、これは私が神様をいよいよ分かりたい、と念願させて頂くようになってからの信心というのは、いつも排水の陣でしたね。
 ん、いわゆる前には進んでも、後ろには下がらん。例えばお願いをする、おかげを下さる、はー、神様だなぁとこういう風に分かるわけですけれども。お願いをする一生懸命の修行もする。それでもなおかつおかげにならん。そういう時には、はー、やっぱり神様はもう、まぁおかげを下さることの出来ない、力がありなさらんような感じ方をするもんで、それで止めてしまう。
 それで、私の場合はそれが、排水の陣が引いてあるからそういう思い方にはなれない、後ろには下がられん、一歩も。だからこれはまだ信心が足りんのだと、前の方へどんどん前進して、そして、段々おかげを頂いて、いうならば良いこと悪いことにかけて、もう的確に神様の働きを感じずにはおれないような働きが、私の上に起きてきたことですね。それは何時も、例えば排水の陣を引いておったからではないかと思います。
 ●④資本もないのに、福岡にお商売をさせて頂こう。家も宿もないのに、いわば小さい少しばかりの所帯道具と、少しばかりの食料を持って、私一人で福岡へでたんですからね。もう絶対ここで何か商売の、そのあれを頂かなければ帰らないという、勿論神様だけは小さいお社を頂いて、福岡の地にまいりました。
 まず第一寝るところがない。私は福岡の教会に、福岡のいわゆる三代、吉木辰二郎先生ですね。えー、こんなわけで福岡に出てまいりました。どうぞよろしくお願いしますというわけで、お取次ぎを頂いて、それから、行くところがないから、一日中御祈念。もう教会に、まぁとにかくお通夜させてもらおうと。お広前で、もう御祈念させて頂いた。
 したら、吉木先生が、あの金光教には大坪さん、お通夜ちゃなかばいち言われました。ね、お通夜というのが、よくいたしますね。普通では申します。金光教にはお通夜はないと。(ようて?)して御祈念するて、そげなことなかと。それでもまぁ、ただ御祈念をしとるちゅうだけならよかろうと思うてから、一生懸命もう一人で御祈念をさせて頂いて、10時か11時頃になりましたら、ここにずっと幕があります。その幕を全部もう閉めてしまわれました。それでも私はもう一生懸命御祈念しよった。
 もうものの一時間もまた御祈念をした頃だったでしょうか。ちょっと一切れつけたら、幕の影から、あの吉木先生がこう顔を出してから、手招きしよんなさいますもん私を。はっと思うてから、おそらく吉木先生は私に、金光教にはお通夜なんてなかばい。という風にいわれたけれども、私の(よい?)ならない、いうならその思いとか、願いとかというものをさして下さったんでしょう。先生もおそらく一緒に、幕の向こうで御祈念をして下さっておったんでしょうと思います。そして、大坪さんそこに寝床が取っちゃるけん、休みなさいというて、楽室に床が取ってございました。
 もう本当におかげを受ける先生方は違うと思いました。ね、一回の、一時、しかも他所の信者に。そういう、なら願いをかけておって下さったり、またそういうおかげ下さった。明くる日、朝のお食事をよばれたり、でそれから出かけまして、別に乗り物があるわけじゃないですから、そうですね、福岡の教会からものの4、5丁も歩いたところに、まぁその時分なもう焼け野が原でところ所そのまぁバラックのような家が建っておるという、「スノコ」町というところがあります。「スノコ」の。えー、「みたてきゅうしろう」という人の家によらせてもらった。
 そして、何か良い商売はないでしょうか。別に商売しておられる訳でもなんでもない。どうの布袋さんのような大きなおじいさんが、長火鉢の前にどんと座っておられた。何をあんた商売するとですか、いや何ちゅって別に資本もなからななきゃ商品も持たんけれども、まぁその時分はあの(ブロウカ?)が流行る時分でしたから、ね、人の品物、いわば人のふんどしで相撲とるような商売なんです。
 商品見本を持っていって、そしてそれを売って、こうするといったようなお商売ですから、それでも大体資本がなからにゃ出来ませんでしたけれども、資本はないので。だから赤裸々な話をした。はー、あんたばっかりは、ちょいとまぁ無茶なことをするねと。ね、それでもここには良く人が集まってね、色んなその闇の物資を持って来るから、世話してあげましょうち。
 して何で歩きなさる、いきよんなさるですかち。まぁ別に車もないですから、その時分は、勿論自動車なんか勿論ありません。して歩いて歩きよります。それじゃあんたどんこんできんですよ、あの納屋の、納屋に行ってみなさい。自転車が一台入っとるから、そればあんたにあげようとこういわれる。その時分に(宮田生?)の朝日という、ちゅうふるの自転車でしたけども、立派なもんが入っておりました。
 ね、値段は聞いたら五千円あまりじゃったですか。乗って行けといわれるから、ちょっとお金も、そのないですよちいうたら、よかち。あんたが働いてから、あの、払うてくれりゃいいから。そんならお言葉に甘えてお借りしますというて、その自転車に乗って、五日目には全部そのお金を払いました。
 まぁその時分の五千円ちゃだいぶん、そうとうの金額ですよね。もうその調子でした。はい。もう本当に、まぁそれこそまぁ置いた物を取るような神様の働きを頂いて、いよいよまぁ神様を、信ぜずにはおられなかった。ね、同時に、それから勿論貧乏も色々、商売不審も続きましたけれども、その不審の中にも、商売がない中にもです、生き生きした神様の働きを感じておった。
 ところが一つこれだけは絶対ということがあった。それは、親教会のご大祭というような時には必ず、先ず祭典費の、こうこうと思うておる、祭典費のお繰り合わせを頂いた。お供えのお繰り合わせを頂いた。もう毎月、ご本部へ月参りをさせて頂いておったが、その月参りの費用だけは、もうその時間ギリギリになってでも、神様は必ずお繰り合わせを下さった。
 だから私が感じたんです。こりゃ神様という方は、こと神様のこと、いうならご大祭とかご本部参拝とかという、こりゃもう神様が喜んで下さることだとこう信じておりまりたから、ならば神様がこのようにおかげ下さるのであるから。私の生活全体が神様が喜んで下さる、今の合楽でいうならば神様が安心して下さるような私に、信心になる以外にない。なればこのようなおかげを受けられるんだというところに、私の着眼が間違ってなかったことを今にして思います。
 こと神様のことなら、こんなにはっきりおかげ下さるんだから。ね、だからなら商売なら商売全体が、神様の心にかなう、今でいうならば合楽理念に基づいて商売をするなら絶対だという確信が生まれて来たわけです。これは、私が排水の陣をしいての、いうなら御用であった、私の、まぁ動きであったという風に思います。●
 神様を信ぜずにはおられない働きが、自分の周辺に起こって来るのであるのです。ね、だからそういう有り方も場合には、やはり本気で神様を頂きたい、信じたいと思うなら、そういう修行もさせてもらわにゃ。いわゆる一心に、前には進んでも後にはひかんという信心です。ね、神様必ず現れてくださいます。
 今合楽ではそれを、なら、例えば天地との関係、関わり合いを説きますよね。昨日でした、一昨日でしたじゃか。あの「くまがえ」さんが、誰、秋山さんか原さんからだったでしょうか、お家で話をしておられて、何か「ちよのふじ」ですかね、今度横綱になったのが、横綱になった、( ? )に、そうですか、私はそげなことは聞かじゃったが。まぁだ横綱にはなっとらんでしょう、ちうて「くまがえ」さんがいよんなさった。
 いいえ、確か横綱になっとりますよ。というて、テレビを引っ張ったら丁度あの、横綱になった、その発表がこう写真が出て、あっておるところであった。原、原さんじゃったか、秋山さんだったでしょうか、顔を見合せて本当にもう神様の働きちゃ間違いないです。そういう働きをずっと頂いておられるわけですね、「くまがえ」さん当たりは。
 色んな、それこそここではいう、その自動車に出会った自動車のナンバーからでも、神の声を聞こうとする精進です。そして、そこに分からせてもらうのは、神様が何時もつきつ、こんなにかかりっきりで私一人のために働きをしておって下さるんだというようなことが分かるわけ。
 して、その神様のもとをたどってみると、おかげをやらずにはおかん、力を付けてやらずにはおかんという働きがいっぱいあることがわかってきて、いわゆるそれを合楽では天地のリズムに乗った生き方と申します。だからリズムにのって行くのですから、この調子でいけばおかげになる。という確信もまた出来るようなものです。
 神を信ずるというけれども、ね、その神様は私共の場合、ね、天地の働きを知ること、しかもその働きの全てが、人間氏子を幸せにせずにはおかんという働きだけしかあってないんだけれども、こちらの頂き違いが、いうならば点や( ? )(てんやわいや?)になったり、または互い違いになったりというようなことになる。
 例えば人間が必要、そこにお金がここに幾らいる。食べ物がここにという時には、必ず神様は、ね、それを一分一厘間違いなくお与え下さる働きが何時もあっておるんだと。だから、その絶対なものに一歩でも近付かせて頂こうという、私は精進が合楽でいう信心修行だと思いますね。
 ね、疑えばそれは目にも見えないことですから、限りがないけれども、合楽の場合はそれを目に見たり、聞いたりする手立てがね、日々説かれておるというふうに思います。どうぞ。